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川上麻衣子 [芸能]
人生を変えた、大切なあの人との「出会いと絆」、そして今だからこそ書きたい「手紙」。TOKYO FMの「ゆうちょ LETTER for LINKS」で8月16日に放送された、女優の川上麻衣子さんが語る、小学校5年生のときの担任・小宮路敏先生への想いを紹介します。
努力すれば、必ず叶う!
日本になじめなかった。
私、川上麻衣子は、スウェーデンで生まれた。
1歳で日本に帰国。
玉川学園で小学校生活を始めた。
でも、小学3年のとき、再びスウェーデンに戻ることになった。
学業は日本のほうが進んでいたので、向こうでは天才扱い。
私はある種の自信を手に入れたけれど、日本語をあっという間に忘れてしまいそうだった。
急きょ1年で日本に戻り、玉川学園の4年生に編入した。
そこから失意の日々が始まる。
1年間の海外生活で、友達とうまくコミュニケーションがとれない。
勉強にもついていけず、やる気がおきない。
もともと活発だった性格にも影が射して、4年生の後半には、すっかり自信のない子どもになっていた。
そうして迎えた5年生。
私は運命的な出会いをする。
担任の小宮路敏先生は、そのときの私の数少ない得意分野を伸ばそうとしてくれた。
英語劇「メアリー・ポピンズ」の主役に抜擢。
私は、舞台の上で伸び伸び演じることができた。
小宮路先生は、自信という名の魔法を、私にくれた。
「先生、ごめんなさい!」
私、川上麻衣子にとって、小学5年生のときの担任、小宮路先生は、あらゆる意味で別格だった。
その情熱、パワーに圧倒された。
毎朝、登校すると、黒板に先生が書いた論語の言葉がある。
それを書き写すことから1日が始まった。
努力すれば必ず叶う。
生まれてきたことに喜びと感謝を持ちなさい。
不言実行。
その教えは、当時よくわからないなりに、心に沁み渡っていった。
朝、日記を提出すると、その日の下校までに全員の文章へのコメントをしたため返した。
特によかった子の文章を4つほど選び、翌朝、新聞にしてみんなに配った。
1年後、それを先生は1冊の本にした。
忘れられないエピソードがある。
当時私たちは電車通学で、クラスのある男の子が駅のホームで騒いでいたことが発覚した。
小宮路先生は「注意しなかったみんなも悪い」と言い、クラス全員を廊下に立たせ、40人近い生徒に次々、ビンタした。
そしてそれから、クラスの中でいちばんガタイのいい生徒に竹ぼうきを渡し、こう言った。
「これで、先生が叩いた分だけ、私を思い切り叩きなさい!」
その生徒は、先生を叩いた。
手を抜いたら怒られる。
竹ぼうきで、40回叩いた。
先生の背中を打つ音が廊下に響く。
叩く生徒は泣き、私たちもおんおん、泣けてくる。
「先生、ごめんなさい!」
哀しかった。
叩かれる先生が、ただ哀しかった。
あのときの涙を、私は、一生、忘れない。
『痛み』とは何かを教えてもらった時間を、忘れない。
小学5年生のときの担任、小宮路敏先生は、とにかく私を、ほめてくれた。
海外から帰ってきて戸惑い、自信をなくしていた私は、少しずつ、本来の明るさを取り戻していった。
それは成績にも表れた。
クラス最下位だった1学期。
2学期にはトップ3に入っていた。
英語劇「メアリー・ポピンズ」の主役への抜擢。
腹式呼吸やお芝居の基礎を習った。
人前で演じるということ。
その緊張と手応えを、そのとき教えてもらったような気がする。
今も先生の教えが、私の中に生きている。
メモ魔になりなさい、何でも記録しておきなさいと言われたので、私のスケジュール帳はいつも見たこと思ったことであふれている。
弱音を吐かないくせがついたのも、先生の影響だと思う。
先生が全ての生徒にやっていたこと。
それは小学1年生のときの声を録音した。
夢を語らせ、歌や楽器を演奏させた。
その録音したテープを、全員にプレゼントしてくれた。
恥ずかしくて、なかなか聞き返せないけれど、そこに確かに私がいた。
「お医者さんになりたい」
確か、そんなことを言った。
卒業してからも、先生からは手紙やはがきが届いた。
そこにはいつも、励ましと誉め言葉が書いてあった。
私は小学5年生のときのように、背中を押され、自分の進みたい道を歩くことができた。
あのとき、先生が担任でなかったら、今の私はないと思う。
~小宮路敏先生へ~
先日、同窓生達より、小宮路先生の素晴らしい音楽の授業を、40年ぶりに受けてきたと聞きました。
80歳を目前にしながら、当時と変わらない、楽しく、温かい教えに、みんな新たな力をいただいたようで、仕事で参加出来なかったことがとても残念です。
歌には、人を元気づけ、勇気づける大きな力があることを、40年前、教えて下さいました。
教室を飛び出し、生徒全員で芝生に寝転び、空を見上げて「お~い! 雲よ!」と大声で語りかけた日は、私の心の中で、今も、生き生きとしています。
人生の後半戦に向けて、あの頃の教えを再び胸に、力強く、先生のように歩いていこうと思います
そうだったんだ
努力すれば、必ず叶う!
日本になじめなかった。
私、川上麻衣子は、スウェーデンで生まれた。
1歳で日本に帰国。
玉川学園で小学校生活を始めた。
でも、小学3年のとき、再びスウェーデンに戻ることになった。
学業は日本のほうが進んでいたので、向こうでは天才扱い。
私はある種の自信を手に入れたけれど、日本語をあっという間に忘れてしまいそうだった。
急きょ1年で日本に戻り、玉川学園の4年生に編入した。
そこから失意の日々が始まる。
1年間の海外生活で、友達とうまくコミュニケーションがとれない。
勉強にもついていけず、やる気がおきない。
もともと活発だった性格にも影が射して、4年生の後半には、すっかり自信のない子どもになっていた。
そうして迎えた5年生。
私は運命的な出会いをする。
担任の小宮路敏先生は、そのときの私の数少ない得意分野を伸ばそうとしてくれた。
英語劇「メアリー・ポピンズ」の主役に抜擢。
私は、舞台の上で伸び伸び演じることができた。
小宮路先生は、自信という名の魔法を、私にくれた。
「先生、ごめんなさい!」
私、川上麻衣子にとって、小学5年生のときの担任、小宮路先生は、あらゆる意味で別格だった。
その情熱、パワーに圧倒された。
毎朝、登校すると、黒板に先生が書いた論語の言葉がある。
それを書き写すことから1日が始まった。
努力すれば必ず叶う。
生まれてきたことに喜びと感謝を持ちなさい。
不言実行。
その教えは、当時よくわからないなりに、心に沁み渡っていった。
朝、日記を提出すると、その日の下校までに全員の文章へのコメントをしたため返した。
特によかった子の文章を4つほど選び、翌朝、新聞にしてみんなに配った。
1年後、それを先生は1冊の本にした。
忘れられないエピソードがある。
当時私たちは電車通学で、クラスのある男の子が駅のホームで騒いでいたことが発覚した。
小宮路先生は「注意しなかったみんなも悪い」と言い、クラス全員を廊下に立たせ、40人近い生徒に次々、ビンタした。
そしてそれから、クラスの中でいちばんガタイのいい生徒に竹ぼうきを渡し、こう言った。
「これで、先生が叩いた分だけ、私を思い切り叩きなさい!」
その生徒は、先生を叩いた。
手を抜いたら怒られる。
竹ぼうきで、40回叩いた。
先生の背中を打つ音が廊下に響く。
叩く生徒は泣き、私たちもおんおん、泣けてくる。
「先生、ごめんなさい!」
哀しかった。
叩かれる先生が、ただ哀しかった。
あのときの涙を、私は、一生、忘れない。
『痛み』とは何かを教えてもらった時間を、忘れない。
小学5年生のときの担任、小宮路敏先生は、とにかく私を、ほめてくれた。
海外から帰ってきて戸惑い、自信をなくしていた私は、少しずつ、本来の明るさを取り戻していった。
それは成績にも表れた。
クラス最下位だった1学期。
2学期にはトップ3に入っていた。
英語劇「メアリー・ポピンズ」の主役への抜擢。
腹式呼吸やお芝居の基礎を習った。
人前で演じるということ。
その緊張と手応えを、そのとき教えてもらったような気がする。
今も先生の教えが、私の中に生きている。
メモ魔になりなさい、何でも記録しておきなさいと言われたので、私のスケジュール帳はいつも見たこと思ったことであふれている。
弱音を吐かないくせがついたのも、先生の影響だと思う。
先生が全ての生徒にやっていたこと。
それは小学1年生のときの声を録音した。
夢を語らせ、歌や楽器を演奏させた。
その録音したテープを、全員にプレゼントしてくれた。
恥ずかしくて、なかなか聞き返せないけれど、そこに確かに私がいた。
「お医者さんになりたい」
確か、そんなことを言った。
卒業してからも、先生からは手紙やはがきが届いた。
そこにはいつも、励ましと誉め言葉が書いてあった。
私は小学5年生のときのように、背中を押され、自分の進みたい道を歩くことができた。
あのとき、先生が担任でなかったら、今の私はないと思う。
~小宮路敏先生へ~
先日、同窓生達より、小宮路先生の素晴らしい音楽の授業を、40年ぶりに受けてきたと聞きました。
80歳を目前にしながら、当時と変わらない、楽しく、温かい教えに、みんな新たな力をいただいたようで、仕事で参加出来なかったことがとても残念です。
歌には、人を元気づけ、勇気づける大きな力があることを、40年前、教えて下さいました。
教室を飛び出し、生徒全員で芝生に寝転び、空を見上げて「お~い! 雲よ!」と大声で語りかけた日は、私の心の中で、今も、生き生きとしています。
人生の後半戦に向けて、あの頃の教えを再び胸に、力強く、先生のように歩いていこうと思います
そうだったんだ
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2015-08-26 16:32